裏山で決めたい。ハイセンスサイト
小柄な智くんの背中が、今夜は一際小さく見えた。
死の恐怖もなく、老いることもない。それはある種の人々には理想の姿。
でも…。神であって神になりきれず…人であって人ではなくなってしまった…。
智くんの震える肩から、その苦しみが俺の手に伝わってくる。
「智くん。。智くんは智くんだよ。龍神さまでも人でもどちらでもいい。智くんがココに居てくれる、それだけで…」
フルフルと小さく振られた首智くんの真っ直ぐな柔らかい髪が俺の顎の下で揺れる。
「智くんがいる。それだけでこの里は雨に恵まれ、暖かな風が吹く。他の里よりたくさんの実りが里にもたらされる。龍神の水があるから皆長生きだし。
婚礼もそうだよ。色恋は無理って言っても、貴方の祝詞を受けた夫婦は共に歩き続ける。姉さんが言ってたんだ、この町の離婚率はとても低いって。山風地区だけなら離婚した夫婦は居ないんじゃないかって、皆ココで式を挙げるから。」
「…そんなの分かんねぇよ…。もしそうでも、この地区の人たちが皆、気が良い人ばかりだからだろう。俺は何もしてないし、人のために祈りもしてない。」
「うん。そうだよ、それで良いんだ。智くんは居るだけで、その存在だけで守り神だから…。だから、智くんが息を潜めて生きる必要はないんだ。もっと、もっと、もっと!智くんがしたいと思った事をしていいんだ。ここに帰ってくれるなら、行きたい所に行ってもいい。俺がついていくから。」
「…そんなの無理だよ…」
「無理なんかじゃない!里の人に遭いたくないなら、裏山の散歩から始めようか。朝なら雲海が見えるかも知れない…。月夜の明かりだけの山でもふたりなら歩ける…。」
智くんの力が抜けていくのが分かる。柔らかな微笑みが背中越しに伝わってくる。
「裏山の散歩か…。ずいぶん近間の提案だな。それに翔くん、この山は雲海の真っ只中でいっつも真っ白だろうが。」
「確かに。裏山程度の高さじゃ、まだ雲海の中か。それに夜の散歩も今夜は月もない真っ暗だしね。」
「月がない…?」
確かに智くんの緩んでいた緊張が、ピンッとその一言で戻った。
「確か星は出てたから、新月じゃないかな。」
「…引き留めて悪かった。もう遅い、部屋に戻りなさい。翔くん。」
「えっ?」
腕の中にいたはずの智くんが静かに、でもしっかりと意思をもって俺の体をその腕で突き放した。
「今日はありがとう。紙も書きやすそうだ。…若冲も本当に嬉しかったよ。大切にする。
翔くんと別れても、100年も200年も500年も、ずっと、ずっと、俺の宝物だ…。ありがとう。。」
「智くん…。」
大判の画集の表紙を長い指が大事そうに撫でる。本当に、愛しそうに、何度も何度も…
「朝、早いだろう。行きなさい。…それから、これから七日間、ココに来なくていい。いや、絶対に来るな。たとえ俺が呼んだとしても、この洞に来るのは罷りならない。」
智くんが、瞬く間に龍神へと変わる。
俺は否が応でも頭が下がり、小屋を後にするしかなかった。
「…あっ…雨。」
洞に入る時はオリオンの三連星が西の空に瞬いていたのに…。
これは、この雨は智くんの涙雨だ。
洞の入り口で後ろを振り返る。智くんの気配は何処にも無かった。。